光あれ

2024年10月20日 オープンドアチャペル主日礼拝 メッセンジャー:西本詩生牧師(札幌バプテスト教会)

『 光あれ 』

聖書:創世記1:1~5

 

u  光があった

今日は、聖書の一番初めのところです。聖書はこういうふうに始まります。「初めに、神が天と地を創造した。」窓の向こう側を見ると青い空が広がっています。その青い空の下にあるもの・・・青い空の向こう側の宇宙をも神さまが創られたお話です。

 私たちが何かを作る時、材料が必要です。札幌バプテスト教会では、卓球テーブルがホールにあります。ほぼ毎週の日曜日の午後、その卓球テーブルが、子どもたちによって秘密基地に変身します。教会にある毛布や布団、椅子やテーブル、クッションマットなどの材料がかき集められ、見事な秘密基地が作られるのです。何を言いたいかというと、何かを作るためには材料が必要なのです。

 神さまはこの世界を創られた時、何を材料にしたのでしょうか?聖書の続きを読みましょう・・「地は形がなく何もなかった」とあります。どうやらもうすでに、土はあったようです。でもそれは「形がなく」、それ以外は「何もなかった」というのです。僕が普段使っている聖書ですと「地は混沌であった」とあります(新共同訳)。「形がなく、これと言えるようなものはなく、混沌であった」のです。これはどういう状況でしょうか。居心地がよいところでは全くないと言っていいと思います。何もないだけでなく、混沌としていたのであれば、なおさらそうです。でも、目で見える風景を説明するためにだけ「混沌」が使われたのではないと思います。例えば、気持ちが混沌としている・・・最近の生活が混沌としていると言ったらどういうことでしょう?気持ちが乱れて落ち着けない・・何だかザワザワ・ソワソワする・・そんな状態が思いつきます。みんなは今日落ち着いていますか?何か心配ごとがあり、ソワソワしていませんか?「地は混沌としていた、地は形がなく何もなかった」と聖書は言いますが、ただ土のことを言っているのではなく、私たちの心の内のことも言っているのです。

 続いて聖書はこう言います、「やみが大水の上にあった」。「やみ」って何でしょう?真っ暗よりもさらに真っ暗なことです。肌で感じられるぐらいの分厚い真っ暗さと言ってもいいのでしょう。よけても、よけても、よけても、よけても・・あるのは真っ暗・・それが「やみ」です。そして、次は「大水」・・「大水」って何でしょう?(英語では「the deep」/新共同訳では「深淵」)。深―い穴のことです。どんなに頑張っても埋めることができない深―い穴です。浅い穴に、石ころを落としたら、すぐに底に着きます。ポトンという音がします。でも「深淵」という穴は深すぎて、大きな岩をそこに投げたとしても底に着いた音が聞こえることはありません。それぐらい深―い穴のことです。ですので「やみが大水の上にあった」というと、とてつもなく深―い穴があって、その穴には水が入っていて、その上はとてつもなく真っ暗闇であったということです。ちょっと想像してみると・・居心地がいい場所ではありませんよね。

 神さまが天と地を創られた時、その材料となったのは「混沌として形がない何もない地」、そして、「真っ暗闇」と「どこまでも深―い穴」でありました・・あまりいい材料ではありませんよね。何かよいものを創りたいのであれば選ばない材料です。でもその「あまりよくない材料」から全てが創られたと聖書は言うのです。

もう一度今日の聖書を読みたいと思います。でも今度は目を閉じながら聴きたいと思います。どういうふうに宇宙が創られたか、頭の中で思い巡らしてみたいと思います。僕が「目を開けてください」と言うまでは、目を閉じたままにしてください。それでは、目を閉じてください。

 いきますよ・・「初めに、神が天と地を創造した。」でも最初にあったのは「荒れ果てた土地であった」。今日皆さんの心の中は落ち着いていますか?ザワザワ・ソワソワさせるような心配事がどこか頭の隅っこで悪さをしていませんか?聖書は、世界の始まりの時、その最初にあったのは「荒れと乱れ」であったと言います。ザワザワ・ソワソワです。それだけではありません。あったのは「真っ暗闇」であり、「どこまでも続く深―い穴」でした。皆さんは最近落ち込んでいませんか?あるいは大事な何かを失って、心に穴のようなものが空いていないでしょうか?「あの時はこうすればよかった」という思いを引きずって、なかなか顔を上げることができない暗い時がないでしょうか?世界の始まりの最初にあったのは「空いてしまった深―い穴」、そして「真っ暗闇」でした。心の芯まで冷え切ってしまう冷たい世界です。でもおやおや?何か音が聞こえてきます。肌の上を、空気がゆっくり流れていきます。風です(3節の「神の霊」は「神の風・神の息」とも訳される言葉です)。しかも少しずつ強くなってきています。「ビュー・・ビュー」と。耳をすませば、風に乗って、ある声が聞こえてきます。最初は小さな声ですが、だんだん大きくなってきます。なんて言っているのでしょう?「光あれ」という神さまの声です。「混沌」「暗闇」「深淵」に、神さまの「光あれ」という声が差し込んできたのです。すると何が起こったのでしょう?「光があった」と聖書は言います。皆さんは今何を思い描いているでしょうか。輝く光ではないでしょうか?安心できる暖かい光ではないでしょうか?目を開けてください。

 私たちは時に乱れてソワソワする時があると思います。何か言葉にならないような迷い、悩みの中に置かれます。しかし今日の聖書を読むと、神さまが「光あれ」と言われると、「光があった」のです。私たちがソワソワする時に、神さまから「光あれ」という声が心に差し込んでくるのです。「もうだめだ」とあきらめてしまう私たちの心にも「大丈夫だ」という光が輝き始めるのです。

 二千年前、神さまの愛を命がけで語られたイエスさま。私たちのために十字架にかかったイエスさま。ここに「大丈夫だ」という光があります。イエスさまがいつまでも、どこまでも一緒だから、光があるのです。これを今日も、明日も信じようと思いませんか?僕は信じたいと思わされました。     

 

u  バビロン捕囚の中で語り継がれる天地創造物語

 今日は「天地創造物語」の一日目を読んでいますが、この物語はいつ、どのような状況の中で書き記されたのでしょうか?それは、イスラエルという国がバビロニアに侵略され、イスラエルの人々が異国の地に強制的に連れ去られた時にまとまれたと言われています。イスラエルの人々は、長い戦争を経て、敗北しました。言葉にならない痛手をもっていました。そういう意味で、彼ら・彼女らの目の前にあった世界と未来は「混沌」であり、「闇」と絶望の「深淵」であったと言えるでしょう。異国で住み続ければ、住み続けるほど自分たちの文化が薄れていき、「自分たちはいったい何者なのか?・・私たちはどこから来たのか?」という問いかけが切実な課題となったのです。そのような問いかけと呼吸するように、今日の天地創造物語が語られたのです。

 

u  神さまが「初め」となってくださる

 「初めに、神が天と地を創造した。」とイスラエルの人々は告白しました。「そうだ、この世界は、バビロニアのような帝国によってではなく、他の何ものによってでもなく、神さまによって創られたのだ。私たちの命は神さまからいただいたものなのだ」と宣言したのです。日頃の生活では、イスラエルの民は、支配者たちに自分たちの主張を訴えることはなかなかできなかったのでしょう。民族間の優越があり、いつも後回しにされていたのです。バビロニアの支配者たちが、何においても「初め」であったのです。その中で「初めに、神が天と地を創造した。」と言うのですから、それは、「どんな時でも神さまが第一となってくださる」という告白でした。これが聖書の出発点なのです。

 私たちの生活においても、仕事、家族、学び、趣味、進路、老後や介護のことなどなど・・数えきれない課題が押し寄せてきて、初めどころか、優先順位が分からなくなってしまいがちなのではないでしょうか?でも、聖書ははっきりと言います。乱れてしまう私たちの営みにおいても・・混沌としか思えないような状況においても、神さまが初めとなってくださる、第一となってくださる。そういう形で、私たちの目の前にある乱れと混沌に神さまの秩序が・・神様のリズムが入り込んでくるのです。

 

u  混沌に埋め込まれている「良し、良し、良し」という神さまのリズム

今日聖書を聴きながら気づかれたと思いますが、創造物語には一定のリズムが埋め込められています。「何々あれ・・そのようになった」「夕べがあり、朝があった。第○○の日である。」という定型句が繰り返されています。そしてそのリズムをまとめるような形で、それぞれの創造物をご覧になって、神さまはそれらを「見て良しとされた」と繰り返されるのです。「良し、良し、良し」というリズムが聴こえてくるのです。興味深いことに、最初に光が創造されましたが、闇は消えませんでした。闇は夜と名付けられ、依然として残ることになりました(5節)。神さまが第一となるから、私たちを悩まし、迷わす課題が一気に無くなればいいのですが、そうとはいかないということを物語っているのでしょう。乱れを生み出すものは、依然としてあり続けるのです。でも闇と混沌があり続ける中で、神さまがその只中で生きて働いておられることを見ること・・感じることが許されているのではないでしょうか。神さまが、「良し、良し、良し」というリズムを埋め込んでくださっているのですから。

 

u  混沌・闇・深淵からの創造・・それが「良い」創造とされた

 私が最初に札幌に赴いたのは、コロナが始まって間もない時でした。その年、イースターの集会は全部中止になりました。緊急事態宣言で教会に集まることができなかったのです。用意していた何百枚のチラシが活用されずにありましたが、裏面は白紙であったため、そこに感謝の言葉を書いて、1階の窓を埋めつくすという試みがありました。宅配をしてくださる配達員の方・・スーパーやコンビニのレジをしてくださる方々への感謝の言葉が、みなさんの声として集められたのです。「今までは配達員のお仕事を当たり前にしていました。すみません!毎日毎日ありがとうございます!」というコメントを読んだことを思い出します。教会の迎えにある、セブンイレブンさんにも張っていただいきました。

 このような試みは、まさに今日の創造物語が語ること・・混沌と破れとしか思えないような状況の只中で、神さまの「光あれ」という言葉に背中を押され、よいものを創りだしていく姿です。ソワソワし、ギスギスしてしまう中で、感謝と喜びを確認していく、助け合う心・・・そのような輝きを創っていくことです。あの時、僕は感動したことを思い出します。ここに創造物語が実現していると気づかされたのです。私たちの日々の営み・・・教会の歩みは必ずしも平凡なものだけではありません。でもその只中において、神さまの創造物語が続くのです。「良し、良し、良し」という神さまのリズムが埋め込まれているのです。これからも、神さまの「光あれ」というみ言葉に背中を押されていくオープンドアチャペルであり続けてほしいと思うのです。