キリストに心開くなら

2024年10月20日札幌バプテスト教会主日礼拝「キリストに心開くなら」

マルコ5:18~20、ヨハネ9:1~3 佐々木俊一牧師 

■聖書にはイエス・キリストとの出会いをとおして、その後の人生が変えられた多くの人々を見ることができます。私たちが生きている今の時代においても同じです。イエス・キリストとの出会いによって、人の人生は変わるのです。出会いは、人生を左右するほどに大きな影響を与えることがあります。出会いが人生を決めると言っても過言ではありません。私たちにとって何にも増して、イエス様との出会いほど素晴らしい出会いはありません。

■マルコ5章に、悪霊につかれた男の話が出て来ます。彼もまた、イエス・キリストとの出会いをとおして、その後の人生が変えられた人の一人です。イエス様が弟子たちと共に、ゲラサ人の地というところに行った時のことです。そこは、ガリラヤ湖の南東部、ヨルダン川の東側、現在のヨルダン領にあり、デカポリスと呼ばれた地方でした。そこでは、豚が飼われていたということですから、ユダヤ人が住む地域ではなく、いわゆる異邦人の住むところでした。この悪霊につかれていた男もユダヤ人ではなく、異邦人だったのでしょう。

 この男がどうして悪霊につかれるようになって墓場に住むようになったかはわかりません。しかし、推測できることは、そのような状態から脱け出したくても自分ではどうすることもできなかったということです。そこへイエス様が来られて、その状態から救い出してくださいました。そして、その男はイエス様についていきたいと願いました。しかし、イエス様はそれを許されませんでした。イエス様は言われました。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」彼はイエス様のもとを去って、イエス様が言われたとおりに、イエス様が自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、その地方で言い広めたのです。

 考えてみると、イエス様のもとを去った後、この男の行動について、福音書の著者はどのようにして知ることができたのでしょうか。マルコはペテロとは師弟関係にあり、この福音書はペテロの記憶をもとにマルコによって書かれたとも伝えられています。もしも、そうだとしたら、ペテロはどのようにして、この男の行動について知ることができたのでしょうか。それについては想像するしかありません。彼に直接会って聞いたのかもしれません。あるいは、他の人から聞いたのかもしれません。イエス様の時には弟子として認められたのはユダヤ人だけでした。しかし、パウロやペテロが宣教する時代になると、ルカのように異邦人の働き人が起こされていたことがわかります。もしかすると、この男もその一人として活躍していた可能性もなくはありません。でも、はっきりしたことはわかりません。

 確かなことは、悪霊から自由にされたこの男は、イエス様に心開いたのです。心を開くとは、相手を信頼し、親しい気持ちを持って歓迎することです。この男は、イエス様を喜んで主として迎えました。そして、彼の人生は変えられていったのです。イエス様に心開いて、イエス様を歓迎して自分の心の座に迎え入れるなら、その人の人生は変わるのです。

■イエス様との出会いで人生が変えられた人の話は、ヨハネ9章にも見ることができます。彼は目が不自由でした。この時代は今の時代とは違って、目が不自由ということは、生きるためには物乞いをするしかありませんでした。そこへイエス様と弟子たちがやって来ました。弟子たちはイエス様にこんな質問をしました。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」

 弟子たちは、なんて無神経で思いやりのない質問をするのでしょうか。でも、弟子たちがこんな質問をしたのにはわけがありました。当時は、病が罪の結果として起こるというのが一般的な考えだったのです。自分が、親が、先祖が、こんなに大きな罪を犯したので、その報いとして、こんな悪いことが起こってしまったのだ、というような考え方です。病と罪とはまったく関係がないとは言い切れませんが、この考えはあまりにも極端すぎます。このような病に対する偏見が人々を苦しめていました。

 しかし、イエス様の見方は違いました。イエス様の見方には、真理があり、愛があり、希望がありました。イエス様は弟子の質問にこう応えました。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」盲人にとってはイエス様のこのことばが、今までに聞いたことのない、まったく新しいものに聞こえました。それは、彼を肯定し、彼に希望と慰めを与えてくれることばでした。彼はイエス様に心開いて、イエス様の言われるとおりに行ないました。そうしたら、見えなかった目が見えるようになりました。

 この後、彼にとって大変なことが起こってしまいます。イエス様の事を受け入れたために、ユダヤ人のコミュニティーから追放されてしまったのです。でも、彼は以前の彼とは違っていました。彼の内には、真理のためならいかなる困難にも屈しない勇気が与えられた姿を見ることができます。イエス様に心開くなら、そして、イエス様を歓迎するなら、その人の人生は変わります。そして、神の力とみわざがその人の弱い所に豊かに現されるのです。

■私は学生の時にアメリカ人宣教師と出会いました。それがきっかけで教会に行くようになりました。聖書を読みました。理解できないことがたくさんありました。それでも、イエス様に心開いて、信じてやってみようと思いました。今考えると、それは最高の選択だった思います。イエス様を信じたら、明るくなりました。あまり心配しなくなりました。悩まなくなりました。楽観的になりました。不安や恐れが小さくなりました。生きることが楽になりました。イエス様に心開き、イエス様を心に迎え入れるなら、人生は変わります。

 しかし、イエス様を信じたからと言って、人生に何の問題も起こらなくなるわけではありません。いろいろな問題や困難を通ります。でも、たとえ、そのようなことが起こったとしても、神様はそれらを乗り越えさせるために、私に力と余裕を与え、支えてくださいました。そして、それ以上の恵みとして、死からの復活の希望が与えられ、永遠に神の子どもとして神の御国に生きる者としてくださいました。将来、そのことが必ず起こることとして、信仰によって受けとめています。すべては、イエス様のおかげなのです。

■私たちには、イエス様を信じてよかったと思うことがたくさんあると思います。思い出してみましょう。イエス様を信じたら変わるということを、イエス様の名前は知っていても、イエス様がどういうお方なのかを知らない人に、知らせたいと思います。私たちの身近なところに、そのような人がいると思います。もしかしたら、話してもあまり興味を示さないかもしれません。もしかしたら、反発されてしまうかもしれません。でも、もしかしたら、イエス様の話をずっと待っていたと言う人もいるかもしれません。 

 また、クリスチャンである私たちは、いつもイエス様に心を開いた状態でいたいと思います。イエス様に心を開くとは、イエス様を信頼して、イエス様を歓迎することです。キリストに心開くのなら、私たち自身にも、私たちの人生にも、神様のわざが豊かに現わされます。そのことを覚えたいと思います。それではお祈りします。