イエスが言うその道とは

2024年10月6日主日礼拝「イエスが言うその道とは」ヨハネ14:1~6 佐々木俊一牧師 

■4つの福音書がありますが、マタイの福音書とマルコの福音書とルカの福音書には、イエス様と弟子たちが過越しの祭りを祝う食事の時に、いわゆる最後の晩餐の時、主の晩餐の模範となった出来事が記録されています。けれども、ヨハネの福音書には、主の晩餐の出来事が書かれていません。ただ、過越しの祭りを祝う食事の時の他の出来事については書かれています。ヨハネの福音書13章を見ると、イエス様が弟子の一人一人の足を洗ったことが書かれています。ヨハネの13章も14章も、弟子たちがイエス様と最後の晩餐を共に過ごした時のことであることは明らかです。

 ユダヤの習慣として、食事時に彼らは足を延ばして横になります。イエス様の両側には、イエス様に愛されたと言われている弟子のヨハネと、そして、イエス様を裏切ったイスカリオテのユダがいました。リーダー格のペテロはたぶん、イエス様から離れた後ろの方にいたのでしょう。後ろの方には、だいたい、しもべがいるのだそうです。ですから、位置的には、ペテロがみんなの足を洗う人であったのかもしれません。ふつう、家の中に入る時には、履物を脱いで、足を洗ってから入ります。足を洗うのは、しもべの仕事です。その時、そこには、しもべがいなかったのかもしれません。ペテロが一番後ろの席にいたとしても、絶対に他の弟子たちの足を洗うような人ではありませんでした。そこまで、ペテロはへりくだった人ではありませんでした。でも、十字架にかかろうとしていたイエス様が、弟子たちへの愛を残るところなく示すために、弟子たち一人一人の足を洗ったのです。それが終わると、彼らは過越しの食事をし、イエス様がパンを裂き、弟子たちに与え、そして、ぶどう酒を飲みました。ところが、この時、イエス様だけは飲みませんでした。どうして、飲まなかったのでしょうか。とても興味深いです。

■1節~3節 このところも、とても興味深いところです。どうして、イエス様は、父の家には住むところがたくさんあるとか、あなたがたのために住む場所を用意しに行くとか、場所を用意したらあなたがたのところに戻って来てあなたがたをその場所に迎えるとか、言ったのでしょうか。それは、彼らがユダヤ人だからです。彼らのやることや言うことには、ユダヤ人の慣習が反映されているのです。もしかしたら、この慣習はユダヤ人に限らず、中東のその他の民族や、さらに広く人類の古い習慣としてあったのかもしれません。

 先ほど言いましたが、弟子たちはぶどう酒を飲んだのに、イエス様は飲みませんでした。イエス様は、天の御国で弟子たちと一緒に飲むまでは、ぶどう酒は飲まないと言ったのです。ユダヤでは婚約式の祝いにおいて、新郎はぶどう酒を飲まないのだそうです。結婚式まで身を慎むためです。

 教会はキリストの花嫁にたとえられることがあります。私たちは、イエス様との間で、ある約束を交わしているところです。どんな約束かと言うと、今私たちが置かれている状態は婚約状態にあるようなものです。婚約とは、将来結婚することを約束している状態です。でも、実際は、婚約状態だとしても、もうすでに結婚しているようなものなのだそうです。私たちは、イエス様との約束によって、他の神々に心を許してはいけません。他の霊的な存在と関係を持ってはならないのです。

 この約束の間、新郎は自分の家に戻って、自分の妻となる人のために家を建て、部屋を整えます。そう考えると、ヨハネ14:1~3がどういうことなのか分かるのではないでしょうか。イエス様は、私たちが住むための場所を備えているところなのです。そして、場所を備え終わったのなら、イエス様は私たちを迎えに来てくださるのです。でも、それがいつなのか、決めるのはイエス様ではありません。新郎の父親がいつ新婦を迎えに行くのかを決めるように、父なる神様がその時を決めるのです。ですから、その時を知っているのは、父なる神様だけです。

■6節「わたしが道であり、真理であり、いのちです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」

 トマスはイエス様に、「どうしたら、その道を知ることが出来るでしょうか。」と尋ねました。そして、イエス様の答えは、「わたしが道であり、真理であり、いのちです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と言う答えでした。

 トマスのように、その道を求めている人には誰に対しても、イエス様はそのように応えます。イエスが言うその道とは、イエス様ご自身です。イエス様を通してでなければ、だれひとり父のみもとにいくことはありません。イエス様を通してであれば、誰でも父のみもとに行くことが出来ます。お金があってもお金がなくても、地位があっても地位がなくても、有名でも無名でも、罪を犯して服役していたとしても、自分の悪癖をやめたいと思ってもなかなかやめられない人であっても、自分の罪を認めて、イエス様が私の罪のために死んでくださったことを信じて、イエス様に従って行きたい、イエス様に従って生きて行こうと決めた人は誰でも、父のみもとに行くことが出来ます。救いの道は、イエス・キリストのみです。イエス・キリストは、いくつかある救いの道の中の一つの道にすぎない、と言うのは間違いです。イエス・キリストを通してでなければ、天国に行くことはありません。その事をしっかりと心に保っていただきたいと思います。それではお祈りします。