ステパノはキリストの奥義を知っていた!

2024年9月22日主日礼拝「ステパノはキリストの奥義を知っていた!」使徒の働き7:44~54佐々木俊一牧師 

■1節~2節 使徒の働き7章は、ほとんどがステパノの答弁です。リベルテンのユダヤ人たちは、「あのナザレ人イエスは、この聖なる所を壊し、モーセが私たちに伝えた慣習を変えるのだ」とステパノが言うのを聞いた、と言う証言によって、ステパノを捕らえ、裁判にかけました。ステパノの答弁が7章にあります。

 先週の復習になりますが、論点は二つあります。一つは、あのナザレ人イエスが神殿を壊す、と言ったという証言です。石造りの立派な神殿を壊されたりしたら大変なことです。イエスの弟子たちがイエスの意志を継いで神殿を壊そうとしていることがもしも本当なら、それは絶対に阻止しなければなりません。しかし、それは、大きな誤解でした。誤解というよりも、ユダヤ人たちは、ステパノを有罪にするために事実を捏造したのです。ステパノが言った神殿の意味は、イエス・キリストのからだのことです。ステパノは、イエスが十字架に死んで、三日目に復活したことを言いたかったのです。イエスは以前、ユダヤ人指導者たちに、「この神殿を壊して見なさい。わたしはそれを三日で建て直しましょう。」と言ったことがあります。この時、イエスは、ご自身のからだを意味したのです。

 二つ目の論点は、モーセが伝えた慣習を変える、ということです。これが意味することは、もはや神殿で動物のいけにえをささげる必要はないのだ、ということです。なぜならば、イエス・キリストが十字架にかかってすべての罪の代価を払ってくださったからです。イエスを救い主と信じる者は、神様との間に和解が成立しました。罪の代価も払われました。しかし、神殿では依然として、毎日のように動物のいけにえがささげられていたのです。それらの動物のいけにえは、大祭司や祭司、その仲間たちに大きな利益をもたらしていました。動物のいけにえが廃止されたら、彼らの商売が成り立たなくなるのです。

 大祭司はステパノに、ユダヤ人たちの証言について、「そのとおりなのか」と尋ねました。すると、ステパノは、イスラエル人の信仰の父であるアブラハムについて話し始めました。アブラハムがまだメソポタミアにいた時代のことです。この時、神様がアブラハムに現れて、彼の土地と彼の親族から離れて、神が示す地に行くように語られました。アブラハムは神に聞き従って、住み慣れたメソポタミアの地を出て行きました。そして、ハランという町に移り住みました。そこで、アブラハムの父が亡くなり、その後、神が言われた地、カナン(現パレスチナ)へ向かって再び移動を始めました。移動したけれども、そこにはすでにカナン人が住んでいました。結局のところ、アブラハムが生きている間にその土地を所有することはありませんでした。しかし、神様は、アブラハムの子孫にその地を与える、と約束されたのです。でも、問題は他にもありました。このとき、アブラハムとその妻サラの間には子どもがいなかったのです。アブラハムが75歳、サラが65歳でした。人間的に考えると、将来、子どもが与えられることなど不可能です。にもかかわらず、アブラハムはこの神様の約束を信じて、神様の言われるとおりにカナンの地に住み続けました。

 彼らは遊牧民でした。家畜も人も祝福されて、その群れは大きくなりました。経済的にも豊かになりました。そして、ついに、アブラハムが100歳、サラが90歳のとき、神様の約束通り、サラは一人息子イサクを産んだのです。神様の約束を受けてから25年の月日が経っていました。アブラハムとしては、たぶん、このタイミングで、きっと神様はカナンの地を与えてくれるだろう、と期待したのではないでしょうか。けれども、まだ、与えられませんでした。  

 ところで、神様は、アブラハムとの契約の中でこんなことを言っていました。アブラハムの子孫は他国の地で寄留者となり、400年の間奴隷となって苦しむことになる。これは、アブラハムにとって、大変厳しい予告です。みなさん、以前、お話ししたことを覚えているでしょうか。創世記15:9~20に書かれている出来事です。神様はアブラハムに、動物を真っ二つに切り裂いて、その半分を互いに向かい合わせにするように指示しました。そして、日が沈みかけた頃、アブラハムは深い眠りに陥りました。その時に、神様は、アブラハムの子孫が他国の地で寄留者となり、400年の間奴隷となって苦しめられる。けれども、神様がその他国人を裁いて、再びアブラハムの子孫をカナンの地に戻す、と約束してくれたのです。その時、アブラハムが見た幻がこのようなものでした。(スクリーン)煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、切り裂かれた動物の間を8の字に進んで行くのです。これは、中近東で行なわれていた契約のスタイルです。この時、アブラハムは、神と契約を結んだのだ、ということをはっきりと知ることが出来ました。

 この契約の際に出て来た、煙の立つかまどと、燃えているたいまつは、いったい何を表しているのか、それについては、また後でお話ししたいと思います。

■8節~16節 アブラハムは、BC2000年頃の人です。今から4000年前です。アブラハムはイサクを生み、イサクはヤコブを生み、ヤコブはイスラエルの12人の族長たちを生みました。それから、ヤコブの息子の一人であるヨセフに、よく知られているあの大事件が起こります。ヨセフの兄たちがヨセフをねたんで、彼をエジプトに売り飛ばしたのです。しかし、神様は彼とともにおられ、あらゆる苦難から彼を救い出し、彼はエジプト王の次に偉い地位についてエジプトを治めるようになりました。すると、エジプトとカナンの全地に飢饉が起こり、エジプトには穀物があると聞いたヤコブは、ヨセフの兄弟たちをエジプトへ遣わしました。それがきっかけとなって、奇跡的に、ヨセフとヨセフの兄弟たちは再会へと導かれるのです。

 ヨセフの兄弟たちは、エジプトの王の次に偉い立場になったヨセフに仕返しされるのではないかと恐れました。しかし、そこには素晴らしい神様の計画があったのです。ヨセフの語った有名な素晴らしい言葉があります。「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良い事のための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたも、あなたがたの子どもたちも養いましょう。」このように、ヨセフは兄弟たちを安心させ、優しく語りかけたのです。

 この話しを聞いて何を連想されるでしょうか。救い主なるイエス・キリストが思い起こされないでしょうか。ヨセフは、兄弟たちに妬まれて、銀貨20枚でエジプトに奴隷として連れて行かれました。しかし、彼が30歳の時に、エジプトの王の次に偉い者として国を治めました。そして、飢饉が訪れ、その結果、先にエジプトに来ていたヨセフが彼の兄弟と家族を救うことになるのです。

 イエス・キリストはどうでしょうか。イエスの公生涯は、イエスが30歳の時に始まりました。公生涯の間、イエスは、多くのユダヤ人から妬まれました。そして、イエスは銀貨30枚で捕らえられ、十字架刑で殺されました。しかし、イエスは三日目によみがえり、天に戻られました。私たち人間は救い主なるイエス・キリストに対して悪を謀りましたが、神はそれを、良い事のための計らいとしてくださいました。私たち人間の罪を負って十字架に架かって死んだイエス・キリストは、三日目に復活して、今は天の御国で神の右に座しておられます。そして、イエスは、イエスを信じて悔い改める者たちに言われます。「もう、死ぬことを恐れなくてよい。わたしは多くの人が生かされるために十字架に死んで、そして、復活したのだから。安心しなさい。あなたたちは永遠に天のみ国に住むのです」とやさしく語りかけてくださっているのです。

■17節~43節 そして、ステパノは次にモーセの話しへとつないでいきます。ヨセフがヤコブとその家族をエジプトに呼び寄せた時にはたったの70人でした。それが、400年も経つと、数百万人になりました。イスラエルの民があまりにも大きな集団になったものですから、エジプトの人々はあせりました。そして、イスラエルの民を虐待し奴隷にしたのです。彼らは神様に助けを求めました。そして、イスラエルの民がエジプトに来て400年が経とうとしていた時です。正確に言うと430年です。神様はモーセをイスラエルの民の所に遣わしました。この時、モーセは80歳でした。最初、イスラエル人はモーセを拒絶しました。イスラエル人たちは、「だれがおまえを、指導者やさばき人として任命したのか」と言ってモーセを拒絶したのです。しかし、神様は、たとえ、イスラエル人がモーセを拒絶したとしても、モーセをイスラエル人の指導者または解放者として遣わされました。その後、モーセは彼らをエジプトの地から解放し、40年の間荒野で不思議としるしによって彼らを導き続け、ついに、カナンの地へと入って行くのです。けれども、この時、モーセはではなく、ヨシュアがモーセに代わって約束の地、カナンの地へと導いていきます。こうして、イスラエル人は約束の地、カナンの地を所有し、神様の約束が成就しました。モーセはカナンの地に入ることなく、神の御もとへと召されました。

 モーセが荒野を導いた40年の間、常に神様が共にいてイスラエルの民を安全に導いておられました。先ほど、神様とアブラハムが契約を結んだ時に、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、切り裂かれた動物の間を8の字に進んで行くのをアブラハムは幻で見たことをお話ししました。それは何を意味していたのか、についてお話ししたいと思います。(スクリーン)雲の柱と火の柱です。それは何を表しているのでしょうか。大きさは違いますが、とても似ていると思いませんか。火と煙(雲)です。出エジプト記13:21~22にこう書かれています。「主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。昼はこの雲の柱、夜はこの火の柱が民の前から離れなかった。」とあります。雲の柱と火の柱は、共におられる神様を表しています。また、その神様が先頭に立って、イスラエルの民を守り、そして、導いておられたのだと言うことです。その神様は、アブラハムが契約を結んだ時の神様と同じ神様です。ここで、もう一つ重要なことがあります。この契約は、非常に親密なものでありますが、しかし、その契約を破った時には、この引き裂かれた動物からもわかるように、それは死を持って責任をとると言うことなのです。この契約は神とアブラハムとの間で行なわれましたが、実際には神であり人であるお方、イエス・キリストお一人でなされた契約です。イエス・キリストは神の側の代表であり、また、人の側の代表なのです。当然、人は契約の中身である律法を守り切ることが出来ませんでした。それは初めからわかっていたことです。ですから、すべての罪の責任とその代価をイエス・キリストが、ご自身の血と命を持って支払ってくださいました。煙の立つかまども、燃えているたいまつも、イエス・キリストを表していたのです。

■44節 モーセは、生前、イスラエルの民に言っていたことがあります。「神は、あなたがたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなた方のために起こされる。」と。モーセの次にイスラエルの指導者として立たされたのはヨシュアでした。ヨシュアをアラム語で言うならば、イェシュア、つまり、イエスのことです。ヨシュアも、イェシュアも、イエスも、意味は救いです。そのヨシュアが約束の地に、神の民であるイスラエルの民を導き入れました。そして、イエスは神の民、イエスを救い主と信じる者たちを約束の地、神の御国に導き入れるお方なのです。

 モーセの時代には、モーセの幕屋がありました。BC2000年頃のことです。カナンの地に入った後も、モーセの幕屋で動物のいけにえがささげられていました。そして、ダビデの時代には、モーセの幕屋があり、そしてまた、ダビデの幕屋がありました。BC1000年頃のことです。ダビデの時代には、モーセの幕屋とダビデの幕屋で神に礼拝がささげられていました。そして、ソロモンの時代になって神殿が造られました。そこで、神に礼拝がささげられるようになったのです。しかし、神様のために神殿を造ることは、本来、神様が望んでいたことではありませんでした。神様は、手で造った家にはお住みにはなりません。預言者が語ったとおりです。ステパノはそのことに気づいていました。

 ユダヤ人たちにとって、アブラハムも、イサクも、ヤコブも、ヨセフも、モーセも、ダビデも、ソロモンも、そして、モーセの幕屋やソロモンの神殿、律法も、とても重要です。彼らの誇りなのです。しかし、これら重要な人物も場所も慣習も律法も、そして、迫害された預言者たちも、伝えたかったのは、キリストです。彼らが示そうとしていたことは、キリストなのです。本体はキリストにあり、最も大事なのはキリストなのです。モーセがイスラエルの民に言っていた、「モーセのような一人の預言者」とは、キリストのことだったのです。モーセはイスラエルの人々を奴隷状態から自由にするために神様によって遣わされました。しかし、彼らはモーセを拒絶しました。イエス・キリストも同じように、人間を罪の奴隷状態から自由にするために神様によって遣わされました。しかし、人間たちはイエス・キリストを拒絶し、そのお方を十字架にかけて殺しました。ステパノはユダヤ人たちに向かってそのことを非難したのです。

 ステパノはキリストの奥義を知っていました。ステパノにはキリストの奥義が大きく開かれていたのです。その奥義は、旧約聖書の人物や出来事や慣習にも表されていました。そして、その奥義が、7章ではキリストの敵であり、クリスチャンを激しく迫害したサウロ、後のパウロに引き継がれていくのです。非常に劇的な展開です。人の思いをはるかに超えて働かれる神様に期待しつつ、私たちも福音宣教の働きに努めていきたいと思います。それではお祈りします。