キリスト教会のリーダーシップ: リーダーのサポート

2024年9月15日英語礼拝

 

メッセンジャー:ジム・アリソン牧師

 

コリント人への手紙 第一 9章1~18節

 

キリスト教会のリーダーシップ: リーダーのサポート

 

ここにいるオープン・ドア・チャペルの皆さん、そしてオンラインで共にいらっしゃる皆さん、キリストの御名によってご挨拶します。今日のメッセージは、「キリスト教会のリーダーシップ」と呼ぶシリーズの最後のものです。私たちは神の民、すなわち教会のリーダーの霊的賜物、人格、実際の働きについて、多くの聖書の教えを見てきました。今日は、リーダーだけでなく、それを可能にするためにリーダーの働きをサポートする教会のメンバーに注目して締めくくりましょう。

 

もちろん、「サポート」と言うと、さまざまな重要なタイプがあります。霊的なサポートがあります。教会のメンバーは、牧師などの教会の指導者に対して、社会的、感情的、[1]ロジスティカル、組織的なサポートを提供し、これらすべてが教会全体が健康で繁栄し、栄えるために不可欠です。

 

しかし、今日は、私たちが来る数か月で牧師を呼びかける際に、私たちにとって実践的かつ必要な問題となる特定のサポートに焦点を当てましょう。それは財政的なサポートです。

 

今日も、使徒パウロが神の民に対する神の御心を理解するための私たちの案内役です。1節で、彼は明らかな答えがある質問をしています。彼は13節まで、このような修辞的な質問を続け、場合によっては自ら直接答えを提供しています。

 

最初の質問(1節)は「あなたがたは、主にあって私の働きの実ではありませんか。」もちろん答えはイエスです。この手紙を受け取るコリントの教会の人々は皆、パウロが行った福音の働きを通して、キリストへの信仰を持っていることを知っています。ここで私たちは、聖書の神が、誰をリーダーとしてサポートするよう民に教えているかがわかります。それは、単にそれを求め、神のために語ると主張する人ではありません。神ご自身が人々を召して御言葉を宣べ伝えさせ、教えます。同様に、信者のグループはこの召しを認識し、今度は私たちが牧師やその他の種類の聖職者としてリードするよう人々を召します。私たちがここに教会として存在していることは、神がこのような方法で、このプロセスを通して働いておられる証拠です。私たちは神の活動をサポートすることに、そしてそれゆえに神がそれを行う人々をサポートすることに専念しています。

 

2節でパウロは、コリントの信者たちについてこのように話すために、「証印[2]」と訳される言葉を使っています。New International Versionでは“seal[3]”(かわいい海の動物ではなく、日本で何かの公式な承認を示すために使う印鑑のような意味です)という言葉を使っています。所有者を示すために、本に印章が押されていたり、ページに刻印が押されていたりするのを見たことがあるかも知れません。聖書の時代には、何かに熱い蝋を少し塗り、冷める前に刻印を残しました、例えば王の指輪で、正式に承認されたことを示すことがありました。

 

パウロは、手紙のメッセージを受け取っている信者たちが、神が彼らの間で彼の働きを通して働いてきたことの生きた証拠だと言います。彼らはすでに非常に価値のあるものを受け取っています。これが、彼らがこの種の働きを経済的にサポートすべきだという彼の主張の基礎となります。

 

次にパウロは、教会のメンバーがその指導者の経済的ニーズを提供することが理にかなっていることを示すために一連の議論を展開します。4-6節では、教会の慣習から論じています。他のリーダーたちはすでにサポートを受けています。なぜ私のパートナーであるバルナバと私はそうではないのでしょうか?次に7節では、彼は彼らの社会の人々の常識から論じます。兵士、農夫、羊飼いは、自分の仕事をするためにサポート[4]を受けています。なぜ私たちも受けないのでしょうか?最後に、8-10節では、聖書の教えから論じます。9節で彼は旧約聖書の律法、申命記25章4節から「脱穀をしている牛に口籠をはめてはならない。」と引用しています。そして10節で彼は、神がこの教えを与えたのは、私たちが動物を親切に扱うためだけではないと説明します。もしこの原則が動物に適用されるなら、もちろん働く人々にはさらに適用されます。パウロはテモテへの手紙 第一 5章18節でも同じ旧約聖書の教えを使い、『聖書に「働く者が報酬を受けるのは当然である」と言われてい

るからです。』と続けています。言い換えれば、パウロは「これは単に私の個人的な意見ではありません。それは神の言葉です」と言っています。

 

11節でパウロは続けて「[5]私たちがあなたがたに御霊のものを蒔いたのなら、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか。」神からどれだけ多くをあなたが受け取ったものを思い出してください―永遠の命、そしてキリストご自身がそのリストのトップにあります。これらは何よりもまず霊的な祝福です—物質的な所有物よりもはるかに価値があります。

 

覚えておいてください、クリスチャンの世界観では、人間は本質的に霊的な存在です。もちろん、私たちは物理的、知的、感情的、社会的な存在でもあり、それぞれが私たちの人間性全体の中で重要な意味を持っています。しかし私たちの神は、お金、才能、他者とのつながり、あるいは他のものに富んでいることよりも、霊的な豊かさをはるかに価値あるものとして教えています。また、神が私たちに与えるよう求める前に、すでに神は最初に私たちに計り知れないほど与えてくださいました。私たちが教会を経済的にサポートすることを通して神に返すものは何であれ、神がすでに私たちに与えてくださった豊かな贈り物のほんの小さな部分にしかなりません。感謝の精神と、神が私たちに示してくださったすべての良さに対する賛美の表現として与えたいという思い—これらが、私たちが神とパウロの勧めるように与えるときの出発点を形作ります。

 

パウロは12節で「[6]ほかの人々があなたがたに対する権利にあずかっているのなら、私たちは、なおさらそうではありませんか。」と続けます。そして彼は、多くの読者が知っているであろう背景情報でさらに議論を支持します。彼は13節で修

辞的に尋ねます。「[7]あなたがたは、宮に奉仕している者が宮から下がる物を食べ、祭壇に仕える者が祭壇のささげ物にあずかることを知らないのですか。」

 

旧約聖書の礼拝システムでは、主に動物と穀物のいけにえを通して、祭司やその他の礼拝を導く人々のニーズを提供するプロセスが組み込まれていました。つまり、いけにえを捧げた後、これらの宗教的働き人は、彼らが捧げた食べ物から食べる権利を持っていました。

 

「では、」皆さんはこう考えているかも知れません。「動物、穀物、神殿などを手に入れるためのお金はどこから来たのでしょうか?」神は、宗教的活動をサポートするために、収入の10分の1を与える事を習慣化するようにご自身の民に教えました。これは十一献金と呼ばれています。これは税金のように彼らに強制されたものではありませんでしたが、宗教的生活のシステムを維持し、与える人々の信仰を築き上げるために、神は積極的にご自身の民に、このような信仰共同体に定期的に与えるよう教えました。贈り物は儀式のためだけでなく、例えば、今日では社会福祉と呼ぶようなものにも使われました。貧しい人々や特別なニーズを持つ人々を自由に助けることは、神の民の信仰生活の重要な部分でした。

 

このシステムに関するおそらく最も有名な言葉はマラキ書3章10節にあります。

 

「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。──万軍の主は言われる──わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。」

 

パウロは、イスラエルでの生活について知っている読者にこの取り決めを思い出させ、知らない人々にはそれを紹介します。もちろん、彼らは彼が書いている時、新約聖書時代にいます。キリストは十字架上で全ての人々の罪のために死ぬことによって完全ないけにえとなりました。それによって、動物やその他の食物のいけにえのシステムの必要性がなくなりました。まもなく(西暦70年に)、神殿自体が破壊され、今日ではイスラム教のモスクである[8]岩のドームがその場所に建てられています。神殿は再建されていないので—いけにえを捧げる適切な場所である神殿がないため—今日のユダヤ人全体としては旧約聖書のいけにえの儀式を行われていません。

 

では、その長く複雑なプロセスの中で、宗教的活動と働き人を経済的にサポートするシステムはどうなったのでしょうか?パウロは、いけにえのシステムが必

要なくなったとしても、その必要性が消えたわけではないことを明確に示しています。神は、ご自身の働きをサポートするために民に与えるようにという教えを取り去ってはいません。

 

私の理解では、収入の10分の1を与えることは、今でも神が私たちに望んでおられることです。もちろん、ケースバイケースで、神は一部の人々により多くを与えるよう導き、彼らはそうします。しかし、10分の1は今でも神の基準であるように思われます。以前、私たちが神のお金(私たちが選択する立場にあるお金全般)を管理する方法について話したときに言ったように、10%を寄付し、10%を貯蓄し、80%で生活することは、財務計画の優れた大まかなガイドで、歴史を通じて多くの神の民にとって有効でした。

 

さて、お金についてもう一言言う前に、警告しておかなければなりません。もしあなたがこの難しい分野に律法主義的な考え方でアプローチすれば、むしろ有害な事をすることになるでしょう。もし「10%を与えなければ神は私をそれほど愛してくださらない」と考えるなら、あなたは神と神の無条件の愛を大いに誤解しています。同様に「10%を与えているから私は他の人々よりも優れている」と考えるなら、あなたは神の恵みを基本的なレベルで誤解しています。どちらの場合も、これらの誤解はあなた神との関係、そして神の教会におけるあなたの生活の両方を損なうでしょう。たとえそれらがバランスの取れた予算や教会の財政的に強い立場につながったとしても、それらはあなたの生活と私たちの生活全体を損なうでしょう。

新約聖書のクリスチャンとして、私たちはしばしばコリント人への手紙 第二 9章7節の教えを指向します。「一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです」アーメン。そして、心の中で何を与えるかを決め、喜んでそれを行う前に、神に相談し、神が導かれることを行うことを実行する決意を持ってください。私は、神が時代を通じて教えてこられた教えに一貫した方法であなたを導いてくださると期待します。私たちが教会全体としてこれを行い、成長し続けるにつれて、パウロが14b節で指摘している戒めに従ってオープン・ドアを組織することができるようになるでしょう。「福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活の支えを得るように定めておられます。」

 

ある意味で、これは組織を運営する信じられないような方法だと思いませんか?典型的な会社や学校で、社長の給料が労働者が支払うことに同意した額に依存するとしたらどうなるか想像できますか?これは多くの文化において一般的な組織とはまさに正反対ですよね?クリスチャンの教会が存在するという事実、さらには健全で安定した方法で機能できるという事実は、私にとって神が私たちの間で働いておられることの明確なしるしです。この種のグループは、最初から最後まで共有された信仰と愛、そして神が私たちのリーダーであるという認識に依存しています。これらの核心的な真理に深くコミットし続けるとき、教会を一緒に賢明な方法で運

営することが可能になります—しかし、それらの本質的なものなしではあり得ません。

 

では、オープン・ドア・チャペルでは、ここで福音を宣べ伝える人々がその働きから生活の糧を得られるようにするためにどうすればよいでしょうか?これは私たちが答えなければならない重要な質問です。それを明らかにするために、神がこれまで私たちをどのように導いてきたと信じているかを振り返ることができます。(一部の方々はこれを覚えているかも知れませんが、他の方々は後から加わったので、少し歴史を振り返るのも役立つかもしれません。)

 

私たちの最初の牧師は、彼が奉仕していた宣教団体から家族の給与を受けていました。彼に加わった引退した牧師には年金がありました。短期間、無給の「牧師集団」がありました。母教会の牧師に、契約ベースで2年間給与を支払いました。私は数年間、別の仕事をフルタイムでしながら、牧師活動費を受けていました。それ以来、私たちはパートタイムレベルの給与を牧師に支払い、彼彼が家族と共にが他の必要なものを賄ってきました。このように、神が恵み深く創造的に、神がオープン・ドアの手に委ねられた働きを続けることを可能にしてくださったことがわかると思います。私たちは感謝しており、今や私たちの信仰の旅の次の段階で神が何を考えておられるかを発見する時が来ています。

 

私は今日のメッセージで皆さんに与える特別な預言の言葉は持っていないと思います—例えば、神から直接のメッセージとして私の夢の中に現れた特定の啓示やビジョンはありません。しかし、私たちがさらなる霊的な導きを神から求め続ける中で、心に留めておくべきとても実践的なことがいくつかあると感じています。

 

一つは、私たちの目標をできるだけ明確にするために、牧師がオープン・ドアにおいてフルタイムで奉仕できるようにするために必要な金額を想像してみてはどうでしょうか。札幌の経済を基準にして、皆さんは良い推測ができると思います。もちろん、独立して裕福な牧師や、経済的ニーズが極めて小さい牧師だけを探すこともできます。独身で独身のままでいる召命を持ち、奉仕年数や家族の拡大するニーズに基づいて給与の増加を期待しない人だけを探すこともできます。ところで、そのような説明に合う人を知っていたら、教えてくださいね。次の牧師招聘委員会で必ずその人について話し合います。あるいは、使徒パウロのように、牧師には福音を宣べ伝えるための生活の権利があることを知っていながら、自由にそれを放棄して(15節)「福音を宣べ伝えるときに無報酬で福音を提供」(18節)ような人に出会うかもしれません。そのような人の連絡先情報があれば、自由に教えてくださいね。そのような人は存在しますが、少なくとも私の経験では多くはありません。そして、私は牧師の奉仕を経済的に実行可能にすることなしに得ることが、私たちの教会にとって神の最高の夢や計画であるとは全く確信できません。それは私たちの場合、何よりも無責任かもしれません。

 

さて、先ほど想像をお願いした給与に戻りましょう。それと共に、あなたが今、十一献金や献金として収入の何パーセントを与えているかを考えてください。もし教会の全員がそれと同じ割合で与えたとしたら、あなたが考えている牧師の給与に到達するには何人必要でしょうか?50人のメンバーでできるでしょうか?100人必要でしょうか?それとも1000人くらいでしょうか?もちろん各メンバーがどれだけ与えるかによりますが、メンバーの数にも大きく依存します。

 

そして、私たちのスペースについて考えてみてください。あなたが想像するフルタイムの牧師の給与を与えるのに必要なメンバーの数に達するには、毎週何回の礼拝サービスを行う必要があるでしょうか?私たちが提供している限られた駐車スペースと礼拝エリアの座席数を考えると、おそらく一度に50人か75人以上ここにいると大きな困難が生じ始める可能性がありますよね。もし毎週2回の礼拝サービスを行い、両方の礼拝で全員があなたと同じ割合で収入を与えたとしたら、それは私たちの目標にどれくらい近づくでしょうか?もちろん、メンバーがオンラインで教会生活に参加する場合、必要なスペースは問題ではありませんが、そのような経験自体と、それを通じて深められる関係の質は、対面で会って、共に奉仕することとはかなり異なるかもしれません。

 

ところで、私が収入の割合について尋ねていて、金額ではないことに気づかれたでしょうか。私たちが与えることを信仰と神との関係に結びつけ続けるのに鍵となる重要な考え方の一つはこれです。良い目標は、全員が同じ金額を与えることではなく、同じ犠牲を払うことです。もちろん、すべての人が信仰における成熟度が同じ段階にあるわけではありません。霊的に強くなっていくことは過程であり、ある時点で全員が同じ場所にいるわけではありません。驚くほど早く成長する人もいれば、50年たっても赤ちゃんの段階にいる人もいるかもしれません。それでも、すべてを考慮に入れても、もし全員が私と同じように与えたら、この教会はどのようになるでしょうか?これは、私たちの前に置いておくべき良い質問だと信じています。

この難しい問題について、神の言葉はどのような導きを与えてくれるでしょうか?マラキ書 3章10節の、収入の10分の1を主の働きに与えることについての教えに戻ってみるのが役立つと思います。最初に読んだ時には気づかないかもしれない良い実践的な知恵がそこにあります。例えば、もしメンバーが神の経済的支援の設計に従うなら、もし10人のメンバーの収入が牧師の経済的支援に向けられるなら、理論的には牧師は平均的な教会メンバーと同じレベルで生活することになります。(私はメンバーではなく収入を数えています。なぜなら、もちろん全てのメンバーに収入があるわけではないからです。)それは一般的に良いことでしょう。なぜなら、牧師が平均的な教会メンバーよりもはるかに豊かであったり貧しかったりすると、誤解や問題が簡単に起こる可能性があるからです。もしかしたら別の、例えば5つの収入が、グループがその使命を達成するための基本的なレベルの活動を行うために必要もなるでしょう。もしメンバーが自宅を開放し、そこで定期的に集まるなら、教会の建物を持つ場合と比べてコストを節約できるでしょう。しかし、もしメンバーが教会の建物を持つことにコミットするなら、基本的な施設を維持す

るためにさらに5つの収入が必要かもしれません。そこで、再び、私たちにとって実践的な質問は、教会が十一献金(10%の割合で与えること)されている20の収入があるためには何人必要か、ということかもしれません。

 

もちろん、それはメンバーがどのように与えるかによります。しかし、それ以上に重要な別のことによるもしれません:教会の人々がどれだけ積極的にキリストのメッセージを広めているかです。もし彼らが日々の生活の中で福音を実践し、言葉と行動を通して、キリストに従うものであることが何を意味するかを周りの人々に明確に示しているなら、他の人々が興味を持ち、教会に加わる良い機会になります。新しい主にある兄弟姉妹が私たちのメンバーシップに加わり、この教会の生活に積極的に参加することが、その場合、普通のこととなり、私たちが期待することになるでしょう。一方、もしメンバーがキリストにある生活の良い知らせを他の人々に広めないなら、新しい人々がグループに入り、それを支援し、より大きな目標に到達することを可能にするのは非常に困難です。

 

重要なのは、すでに教会にいる人々からさらに多くのお金を絞り取ろうとすることではありません。また、人々を自分たちのために何かを得るために使いたい道具として扱うことでもありません。もし私たちが経済的により強くなるために多くの人々を望むなら、私たちは神の祝福ではなく、神の正しい罰を受けるでしょう。カルトはそうしますが、キリストの教会はそうしません。もちろん、新しいメンバーも古いメンバーも、愛の神が私たちにご自身の民として持つよう教えられる尊敬と理解を持って扱う必要があります。

 

しかし、私たちの主の計画は、単に週に一度一緒にいる小さな快適な友人のグループを持つことでもありません。私たちは、神がこの世界全体に神の国をもたらすという偉大なビジョンから、私たちの本当の目標を、毎週日曜日の快適で楽しい経験、特別なストレスがないこと、あるいは単に教会として生き残ることといった、狭く内向きの目標にシフトさせることもできます。私たちがそうすると、私たちは神がこの神の教会を始められた時に最初に持っておられた私たちへの夢をゆっくりと失っていきます。私はそれがオープン・ドアに起こってほしくありません。皆さんは起こってほしいですか?私たちの神は、私たちのためにより良いものへの希望を持ち続けておられます。私の祈りは、私たちが神と共に、そして神と共に留まり、神が私たちのために、そして私たちを通して札幌、北海道、日本、そして世界のために持っておられるすべての目標を達成することに内なるコミットメントを持つことです。一緒にそのために祈りませんか?

 

愛する父よ、ここオープン・ドアでこの素晴らしい信仰のコミュニティの一員となれるようにしてくださったあなたの恵みに感謝します。新しいリーダーを探す必要に直面している今、私たちは、あなたが良い計画の中で、ODCでキリストにある生活の良い知らせを宣べ伝える「務め」(17節)を誰かに与えてくださっていると信じています。私たちは今日、あなたの御言葉から、あなたが私たちにその福音の奉仕を可能にすることの一部となることを望んでおられることを聞きました。

私たちが日々の言葉と働きを通して福音を分かち合うことに、積極的で、愛に満ち、忠実であるよう助けてください。これからの日々、私たちの現在のリーダーと次のリーダーが、それを賢明かつ効果的に行うよう私たちを整えることができるようにしてください。そしてそのプロセス全体を通して、あなたの教会を成長させ、あなたとあなたの救いの愛を知る必要のある多くの人々への祝福となるようにしてください。キリストの御名によって、アーメン。

 

 

引用元提示:

『聖書 新改訳2017』

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

より規定範囲内で引用

 

 

NIrV stands for New International Reader’s Version.[i]

Holy Bible, New International Reader’s Version®

Copyright © 1995, 1996, 1998 by International Bible Society

 

 

[1] 教会のリーダーへのロジスティクスサポートには、牧師やその他の教会のリーダーが直面する管理および運営上の負担を軽減し、彼らがより効果的に中核的な奉仕の責任に集中できるようにすることを目的とした、幅広いタスクとサービスが含まれます。

[2] NIrVでは“proof”(証明・証拠として訳されるのが一般ですが、ここでは「璽」の意で訳されています。)

[3] ここでの“seal”は“Seal (emblem)”の意。

[4] ここでのサポートは「兵役に就く人は給与を支給される事により養われていて、農夫はぶどうの実を食べ羊飼いは乳の飲み自活できている」と言う意です。英語の“support”は単なる「支援」を超えた広い意味があります。

[5] “We have planted spiritual seed among you. Is it too much to ask that we receive from you some of the things we need?”(NIrV)(私たちはあなたたちの間に霊的な種を植えました。私たちが必要とするものの一部をあなたたちから受け取るように求めるのは、あまりにも要求しすぎでしょうか。}

[6] “we have even more right to do so?”(NIrV)(他の人はあなたから助けを受ける権利があります。私たちにはもっと多くの権利があるのではないでしょうか。)

[7] “Don’t you know that those who work in the temple get their food from the temple? Don’t you know that those who serve at the altar eat from what is offered on the altar?” (NIrV)

[8] “Dome of the Rock” (固有名詞)メッカのカアバ、マディーナの預言者のモスクに次ぐイスラム教の第3の聖地であり、東エルサレムの神殿の丘と呼ばれる聖域にある。