私たちが信じる福音とは

2024年5月12日主日礼拝「私たちが信じる福音とは」Ⅰペテロ1:23~25佐々木俊一牧師

■ペテロの手紙第一の1章に、「福音」ということばが2度出て来ます。一度目は12節、二度目は25節です。福音とは、良い知らせです。もともと、福音とは、戦いの勝利を知らせることばでした。今日は、私たちが信じる福音について確認したいと思います。

■23節 ここに、朽ちる種と朽ちない種のことが書かれてあります。朽ちる種とは、24節にあるように、草や花の種のことです。この地上に、植物の種類はどれくらいあると思いますか。現在までに記録されているだけでも、41万種だそうです。そのうち、名前がついているのは、27万7千種だそうです。日本には7000種あって、日本固有のものは2900種だそうです。それぞれの植物にはそれぞれの種があります。ある場合は胞子だったり、球根だったリする場合もあります。これらの種から生まれる草や木は、時が来ると葉をつけ、花を咲かせ、実をつけたりします。しかし、それはいつまでも続きません。花は散り、葉は落ちます。非常に長い間、生き続ける木もありますが、そうだとしても、いつか老木となり、朽ちてしまいます。この地上に生きているものはすべて、朽ちる種から生まれたものなので、命に限りがあるのです。

 けれども、朽ちない種から生まれたものは、いつまでも残ります。つまり、永遠に生きるのです。朽ちない種とは何でしょうか。それは、神のことばです。神のことばから生まれたものは、永遠に生きるのです。私たちはこの地上に生を受けた時、朽ちる種から生まれました。ですから、そこから生まれた者はいつか朽ちてしまいます。でも、私たちは神のことばによって新しく生まれました。神のことばは朽ちない種です。朽ちない種から生まれた者は、いつまでも朽ちることがありません。

■24節~25節 「人はみな草のよう。その栄えはみな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは永遠に立つ。」

  ペテロは、この箇所をイザヤ40章から引用しています。使徒の働きでもそうですが、ペテロはよく旧約聖書を引用しています。イエス様がペテロの先生でした。ペテロはイエス様と過ごす3年半の間に、伝道の実践的訓練だけではなくて、聖書もたくさん学んでいたのでしょう。イエス様が弟子たちの先生でしたから、弟子たちはきっと、イエス様に似て、イエス様が見たように聖書を見、イエス様が用いたように旧約聖書を用いたに違いありません。ペテロはイエス様から学んだことが、このようにして、ここで花開いたのです。福音書に見るペテロの印象によるならば、ペテロがこんなにいろいろと旧約聖書を学んでいたとは想像もつかないことです。ペテロはいろいろな失敗を繰り返しながらも、学ぶべきことはきちんと学んでいたのです。ペンテコステの時に聖霊を受けて以来、イエス様から受けた学びと訓練は、聖霊の導きによって最高の形で用いられました。

 私たちも、過去に学んだことは、聖霊の導きを求めつつ、今用いることができます。また、今学んでいることは、将来、きっと用いる機会があることでしょう。ですから、私たちの日々の訓練と学びをおろそかにしてはなりません。

 私たちはみな、聖書を持っています。持っているだけではもったいないです。読みましょう。読むことによって、私たちは新しいことに出会います。聖書は古い書物ですが、読んでいるうちに今まで気が付かなかったことに気づかされることがあります。それは、新しい出会いであり、新しい発見です。また、そのようなことを誰かから教えてもらう事もあります。とにかく、聖書を読んだり、教えてもらったり、さらに自分で調べたりして得たことは、きっと将来、神様が用いてくれます。

 イザヤ40章を見てみましょう。40章を見てみると、皆さんが以前、聞いたことのある有名な聖書のフレーズを目にすると思います。たとえば、40:3~5とか、6~8とか、31はよく知られています。9節に、「シオンに良い知らせを伝える者よ、高い山に登れ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ、力の限り声を上げよ。声を上げよ。恐れるな。ユダの町々に言え。見よ。あなたがたの神を。」とあります。ここに、「良い知らせ」とあります。これこそ、福音です。彼らにとって何が福音なのでしょうか。

 実は、40章の前の章、39章は、イザヤがヒゼキヤ王に向かって、ユダ王国は滅び、バビロンにより捕囚されることを告げているところなのです。バビロン捕囚は、この時まだ起きていませんでした。起こるのは、およそ、100年後のことです。この時から100年後、ユダ王国は滅び、ユダの人々はバビロンへと連れて行かれることになるのです。

 しかし、ユダの民がそのような悲惨な状況に置かれたとしても、バビロンの栄えはいつまでも続くものではありません。そのことをイザヤ40章は表しています。バビロンがどんなに栄華を極めたとしても、それはいつか必ず、野の花のように枯れて散ってしまいます。いつまでも続きません。いつか終わるのです。しかし、神のことばは違います。神のことばは永遠に変わることがなく、そして、それは必ず成就するのです。つまり、捕囚は必ず終わって、神がまた、ユダの人々をエルサレムの地へと戻し、そして、神が彼らを治められることを約束しているのです。そのことは必ず成就します。ですから、イザヤ40章は、ユダの民にとっては良い知らせ、福音なのです。バビロンの国が滅び、バビロンの支配から自由にされ、そして、自分たちの国に帰り、自分たちの国を再建し、そこは、神が治める国となるのです。これがユダヤ人にとっての良い知らせ、福音なのです。

■この地上には200以上の国があり、80億以上の人々が生きています。世界は莫大な富により繁栄がもたらされています。しかし、その反面、少数の大金持ちと多数の貧しい者たちが生きる場所となっています。その中で、いろいろな問題が噴出し、解決されることなく山積みにされているのです。人間の自己中心はもっと多くの罪と問題と犠牲をもたらしています。けれども、これらのことも、いつまでも続くことではありません。いつか終わりが来ます。ただ終りが来るだけではありません。ただそれだけならば、それはとても恐ろしくて悲しいことです。希望が見えません。でも、大丈夫です。神様は私たちのために、ちゃんと希望を考えてくれています。その希望が、良い知らせ、福音なのです。

 人々が神の御国へ入るために、神様はそのための道を用意してくださいました。神の御国では、義なるお方イエス・キリストがおられます。神の御国は、イエス・キリストが治める国です。私たちはいつかそこに住みます。どうしたら住めるのでしょうか。それは、イエス様を救い主として信じることです。それが神の御国へ入るためのチケットです。                     ■コリント人への手紙第一15章を見てみましょう。ここでは、パウロが福音について語っています。福音の意味はペテロの時と同じです。良い知らせです。その良い知らせとは、イエス・キリストの救いです。パウロはペテロよりも、もっと詳しく福音を語っています。

 パウロは、コリントの教会の人々にすでに何度もこの福音を語っていました。この福音のことばをしっかりと覚えているなら、この福音によって救われるのだ、とパウロは言うのです。ですから、本当に、私たちにとって重要な内容を含んでいることばなのだと思います。パウロは、私たちにこの福音をいつも最も大切なこととして思い起こしてほしいのです。福音について、3つのことを語りたいと思います。

 一つ目に、キリストが、聖書に書いてある通りに、私たちの罪のために死んだことです。キリストが私たちの罪の代価をご自分の命をもって代わりに支払ってくださいました。罪の代価は永遠の滅びです。私たちの命をどんなにたくさん集めても、罪の代価を払うだけの価値がありません。罪も汚れもない神なるお方の血だけが、その代価となり得るのです。

 先ほど、聖書に書いてある通りに、と言いました。その事については、旧約聖書の人物や出来事、いけにえのシステムやユダヤの祭り、特に、ユダヤの三大祭り、あるいは、預言者たちの直接的な言及によって表されています。イエス・キリストは、私たちの罪のいけにえ、そして、和解のいけにえとして死んだのです。

 二つ目に、キリストが葬られたことです。イエス・キリストは木にかけられ、罪の呪いをその身に受けて、旧約聖書にあるとおりに死にました。ローマの兵士は、イエス様がすでに死んでいるのを見て、足のすねを折ることなく、しかし、最後の留めに脇腹を槍で刺したのです。その後、十字架から降ろされて墓に葬られました。キリストの足のすねが折られなかったことや、キリストの刺し傷のことは旧約聖書に言及されていることです。 

 イエス様が地上におられた時のある日、パリサイ人にこんなことを言ったことがありました。「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。」つまり、ヨナが三日三晩大魚の中にいたことを通して、キリストが死んで三日目によみがえることに言及したのです。

 イエス様は週の初め、日曜日に復活されました。これは、過越しの祭りの後半部分に初穂の祭りと言うのがあって、その祭りと関係のある出来事です。過越しの祭りの日は、日にちは定められていましたが、曜日は定められていません。けれども、初穂の祭りは安息日の次の日、週の初め、日曜日に定められていました。大祭司はこの時に、大麦の初穂を手に持って、それを揺り動かしながら神にささげるのです。Ⅰコリント15:20に、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました、と書かれてあるとおりに、キリストはまさに死者の中から復活した初穂なのです。

 三つ目はすでに言いましたが、キリストは、聖書に書かれてある通りに、三日目に復活したことです。その後、ペテロに現れ、他の弟子たちにも現れました。さらに、500人以上の人々に同時に現れたのです。ペテロは、この出来事について言っています。「私たちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、私たちは巧みな作り話を用いたわけではありません。私たちは、キリストの威光を目撃したのです。」私はこのペテロの証言を信じます。

■私たちが信じる福音とは、どういうものでしょうか。私たちにとって福音とは、神様の支配です。神様が治める御国に入ることです。それは、この地上でも可能なようです。けれども、現実は、そんなにうまくはいきません。なぜならば、私たちは神様が造られたこの地上のすばらしさを楽しんでいますし、それを簡単に手放す気にはなれないからです。生涯、私たちは、私たちの心の中で、この世の楽しみと苦しみの中で葛藤し続けるのです。しかし、それでも、福音は私たちから離れることはありません。そして、神の御国に入って、それは完全に成就します。福音とは私たちにとって、神の支配であり、そして、福音は必ず成就するのです。

 そして、福音とは、勝利の知らせです。コリント人への手紙第一の15:57にこのように書かれています。

「神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」

福音とは、私たちにとって、戦いの勝利を知らせることばです。私たちの人生には戦いがあります。その戦いがどのようなものであろうとも、イエス・キリストがすでに、私たちのために勝利してくださいました。イエス・キリストの勝利のゆえに、イエス・キリストを信じる者たちも勝利して神の御国へと入って行くのです。

 福音とは、朽ちない種であり、神のことばです。神のことばである福音は、必ず成就します。 

 私たちが信じる福音とは、けっして、根拠のない希望ではありません。根拠のある希望なのです。聖書に、明確に述べられている福音、イエス・キリストの救い、この福音をしっかりと覚えておきましょう。それではお祈りします。